2019年7月の主張

 

ペンリレー   SEさん

 

 

 

愛と味のバトン ミートソースに託して

 

 

 幼い頃の思い出の味の話となると、囲炉裏で炙った味噌のおにぎりとか、お弁当の塩が吹いた焼き鮭とか、給食の鯵のフライが懐かしいとか、隣の畑の酢っぱいスモモ…。もう止まらない。 私にとってのそれは“祖母のいり玉子”。小さな鍋でことこと混ぜられたごくシンプルなもの。熱々のごはんに、ふんわり盛ってもらって、口に含むとほんのり甘さが広がる。湯気の向こうに祖母の柔らかい表情。祖母は気骨のある明治の女だったというが、私のおぼろな記憶の祖母はいつも玉子の甘い味と共に蘇る。祖母と血はつながっていなかったが、私を大切に思ってくれている事は、幼いなりに感じとっていた様に思う。

 

 誰にとっても、思い出の味は、それを供してくれた人や関わってくれた人とのエピソードと、その時代の空気が結びついて、心の奥深い所に刻まれている。その時自分が誰かとつながっていたという暖かい感覚に、人は支えられているのかもしれない

 

 私も古希を迎え、孫からおばあさんと呼ばれて久しい。私は、この子達の心に、「あなたを大切に思っているよ。」「何があってもあなたと繋がっているよ。」と、孫たちの好きなミートソースに託して伝えていけたらと思う。

 

 

ペンリレー2      “母になる”ということは“命がけ”

ペンネーム;あんふぁん

 

 

 

  新しい生命がお腹に宿ったと喜んだのも束の間、つわりにまされたとったら、今度は切迫早産と医師に告げられ、即入院。2ヶ月間、絶対安静。幾つもの山を乗り越え、激しい痛みに耐えてやっと出産!産後母乳て、えることができたものの、産後で痛む身体をなんとか動かしながらのオムツ替えと授乳は、想像をはるかに超えるきつさ。文字通り、寝る間もありませんでした。このに、保健師さんの新生児訪問け、われました!

 

乳児のケアは、試行錯誤の繰り返し。急に完璧な母親になれる訳では有りませんね! 泣き止まない我が子を抱えて途方にくれる日々は、手探りで進んでいく他なく、出口の見えない暗いトンネルの中に迷い込んでしまったようでした。母親は、わが子に教えられながら、「母親」になっていきますね(^^

 

 

 

  “子は3歳までに一生分の親孝行をやり遂げる”という言葉がありますが、“首が座った日”“初めて笑った日”、我が子が“自力で1歩を踏み出した日”…。思い返すだけで涙が出そう!

 

辛い時間があったことも事実だけれど、ひとつひとつの我が子の成長が母にとっては親孝行なんだなぁとしみじみ。…と同時に、今後我が子に何が起ろうとも、母としてどっしり構え受け止めてあげようと心に決めたのでした。

 

2019年6月の主張

2019.6月の主張

2019年4月の主張-パート2 新入学・鍼灸おめでとうございます💛

2019年4月の主張 パート1  平成に続け、戦争の無い平和な令和!

“令和に期待する平和!”

 

昭和は戦争の時代でした。私は母の胎内にいた310日、三鷹の上空を東京下町の隅田・江東方面にB29が編隊を組んで飛来! 母は庭の防空壕に逃げる暇が無く、“最早ダメ“と覚悟。編隊は東京に下町に焼夷弾を落とし、10万人以上の方が熱風に巻き込まれ亡くなった! 米軍は首都への集中攻撃で戦争継続意欲を無くさせるためとの見方が有ったが、当時の軍部は“本土決戦”を叫び戦争終結を躊躇。その後、2発の原爆投下がもたらされた第二次大戦! 長崎・広島への原爆投下で、昭和天皇は終戦勅語が発し、漸く、昭和20815日終戦を迎えた。

その夜の晩から、久方ぶりに電灯に掛けていた布を外して、明るい室内と窓を明け放せることが出来た。

 私は青年時代、ハワイ・サイパン・グアム・真珠湾・沖縄本島(南部戦跡等)に行ってきた。ハワイでは、沈没した船から今でも油がポカポカと海底から浮いてきている。それを、「兵士の涙」であると見学者に説明。思わず、日本人であることを悟られまいと恐怖感と緊張を覚えた。戦時、日本本土では繰り返される空襲警報のサイレン! 焦土の熱風に追われて逃げ惑った母や子どもらの頭上に炸裂する爆弾や機銃照射! 

沖縄では南部戦跡を見て回りましたが、観光バスのガイドさんは、「ここは鉄の雨が降りました! 今後、一木・一草も、生えないでしょう」と爆弾が大量に落とされたことを語った。“ひめゆりの塔”では、当時の女子学生たちは従軍看護師として帝国軍人と行動を共にしたゆえ、日々の緊張と恐怖に思いを致す度に、戦争の残酷さを感じた。

 

サイパン・グアムは、リゾート地として若者がレジャーを楽しむ地であるが、旧日本軍の錆び切った舟艇が海水面に一部出ている脇を、観光客の乗ったバナナボートかすむように飛んで走る。また、陸地の奥の壕は、そこで自決した兵や民間人の霊が未だ漂っているかのようなヒヤッとした空気が漂っていた! ガイドは、「壕に向かって、写真を撮らない!」という注意がされた。無念な死は成仏できずに、未だ苦しんでいるのだろうと胸が詰まった。また、南方の島の“バンザイクリフ”と呼ばれる断崖では、迫りくる米軍の手から逃れようと女性や子供も、万歳の形で両手を頭の上に組み、海に飛び込んだとのこと。天皇のいる日本の方に向いた万歳ではなく、途中、木に引っかかって苦しむことの無いようにとの思いで、飛び込んだと聞き、その苦しさ・切なさに胸が塞がる。

 

帝国軍隊は本来、国民を守るが前提のはずが、「赤ちゃんの泣き声で、米兵に見つかるから」と、母子を壕から追い出したり、捕虜になるなと手榴弾を渡し自決を訓示した。

 

片道切符のガソリンだけ搭載して、次世代を担うべき人材であったと特攻の学徒は消耗品の如くに、米艦への体当たりなど、兵隊も民間人の命も消耗品だった。戦争にまつわる過去の忌まわしさが昭和を繰り返すな! 平成は、幸い戦時突入が無かった! 令和も平和な時代を!

誰もが笑顔の社会を目指して

 

夢と希望が持て(Well-Being)、輝き生きる女性と子の笑顔が広がることを目的に“アンの家Annesハウス”を運営。女性相談や女性弁護士相

談・スキルアップセミナー等開催(市委託)。2019年度は子育て支援調査。2020年度は子育てや介護と両立の働き方等に係わる調査を行い、働く女性の経験・キャリアが積み上げられることを目指します。